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茨城小幡事務所

〒311-3157 東茨城郡茨城町小幡2,761-41
 
遺跡名
調査期間
主な遺構
主な遺物
中畑遺跡
平成18年4月〜平成19年3月 縄文時代,古墳時代,奈良時代,平安時代,中世,江戸時代 竪穴住居跡,掘立柱建物跡,溝跡,井戸跡,土坑,道路跡,方形竪穴遺構,墓坑,堀跡,土塁

土師器,須恵器,土師質土器,陶器,漆器土製品,木製品古銭など

下土師東遺跡 
小幡城跡
前新堀遺跡
前新堀B遺跡
*主な時代をクリックすると年表がでます。
 

前新堀遺跡(まえしんぼりいせき)


平成18年11月から12月までの調査状況

 
1区(国道6号線の北側)の調査に引き続き,2区(国道6号線の南側)の調査を行いました。2区では堀跡のほかに,土塁跡の調査も行いました。堀跡は最大幅8.5m,最大深さ3.5mの箱堀です。堀底から土塁の最上部までは5mもの高さがあります。土塁跡は,断面を観察すると,下の方には地表面に近い土,上の方には堀底に近い土が積み重なっており,堀を掘った土を積み上げたことがわかります。当初,堀跡は国道6号線の下でつながっているものと考えていましたが,平面図をとったところ,規模は同じものの,角度が合わないことから,国道6号線の下で食い違いを呈するものと考えられます。



 

北東側から見た第1号堀跡と
第1号土塁跡です。

第1号土塁跡の堆積状況です。


 

平成18年9月から10月までの調査状況

 
茨城町の南西部に位置し,涸沼川右岸の標高29mの台地中央部に位置しています。遺跡は国道6号で南北に分断されており,北側部分(1区)の調査を行いました。遺構は,遺跡名のとおり,堀跡1条が確認されました。堀跡はほぼ南北方向に伸びており,幅は確認面で推定約6m,深さは最も深いところで確認面から約3mの箱堀です。堀跡は,国道の南側(2区)で南西方向に向きを変えて続いていることが,現況で確認できます。現在,国道東側の2区の調査に入るための準備中です。
 
北側上空から見た前新堀遺跡の
第1号堀跡です。
第1号堀跡の調査風景です。
 

小幡城跡(おばたじょうあと)


平成19年1月までの調査状況

 

1月末をもって調査を終了しました。今年度の調査区域は,小幡城の七の郭の一部を含んでおり,城との関連を想定して調査を進めました。調査の結果,墓域や溝跡,井戸跡等が確認されました。しかし,建物跡等があまり確認されないことから,七の郭は広大な平場であったことが分かりました。また,小皿や内耳鍋などの土師質土器,古瀬戸や常滑産の陶器,古銭等の遺物が出土してます。
今回の調査によって,検出された遺構や遺物が小幡城の謎を解き明かす大きな鍵となることは間違いありません。

 

小幡城を上空から見た様子です。

副葬品の漆塗りの木椀と古銭です。

 

平成18年11月から12月までの調査状況

 
調査している場所は,小幡城本郭の北と西に広がる「七の郭」とその外側(北側)にあたります。「七の郭」は外側を土塁(どるい)と堀(ほり)に囲まれた平らな土地です。調査区からは井戸の跡や溝跡,墓壙(お墓の跡)などが見つかっています。溝跡からはたくさんの土器や陶器などの生活用具といっしょに木でできた鍋のふたが,墓壙からは北宋(むかしの中国)のお金や漆(うるし)ぬりのお椀(わん)が発見され,当時の社会や人々の生活の様子がうかがえます。今後,「七の郭」とその周辺の土地利用の様子をくわしくつかむことが,調査の大きなポイントになります。
 
溝の底から木でできた鍋のふたが
見つかりました。
お墓には漆ぬりの椀と古銭が
副葬されていました。
 

平成18年9月から10月までの調査状況

 
谷津に囲まれた微高台地を利用した平山城です。昨年度は城跡の西側の調査を行い,堀跡や竪穴住居跡,墓域が確認されています。今年度は9月から調査が再開され,現在,北西側の緩斜面の調査を行っています。調査区からは溝跡や井戸跡が確認されており,陶器類や古銭等の遺物も出土しています。
 
北側上空から見た調査区北部と
小幡城本郭跡です。
真上から見た調査区北部の状況です。
 

前新堀B遺跡(まえしんぼりびーいせき)


平成19年1月までの調査状況

 

当遺跡は1月末をもって調査を終了しました。確認された堀と土塁は,北東から南西に延びており,その一部は鎌倉街道と推定される道と交差しています。今回の調査で,前新堀遺跡と同様に小幡城の防御性を高める重要な堀と土塁であったことが分かりました。

 

北西から見た様子です。右上の森が小幡城跡です。

 

平成18年11月から12月までの調査状況

 

前新堀遺跡の200mほど東側に平行している遺跡で,前新堀遺跡とともに小幡城に向かう道路をさえぎり,城を守るための堀と土塁と考えられます。土塁の高さは最大1.5m,堀の深さは1mほどです。堀は「薬研堀(やげんぼり)」と呼ばれる底がとてもせまい形で,戦さの際には十分に防御の役目を果たしたことが想像されます。前新堀遺跡,そして当遺跡の調査によって,小幡城の規模や構造を解明する手がかりをつかむことができました。

 

「薬研堀」の形や深さがよく分かります。

堀の壁面をていねいに調査しています。

 

下土師東遺跡 (しもはじひがしいせき)


平成19年3月までの調査状況

 
3月20日をもって調査を終了しました。今年度は,3〜6区の調査を行い,縄文時代前期と古墳時代前期,後期〜平安時代にかけての集落跡と江戸時代の墓地跡を確認しました。特に古墳時代前期の住居跡からは,炉器台(ろきだい)が炉から出土しており,当時の煮炊きの様子を探る手掛かりになりそうです。また,奈良・平安時代の遺構では,1辺150m以上の溝に囲まれた住居跡や掘立柱建物跡の他,直径3mを超える県内最大級の井戸跡が確認され,当時の一般集落とは違う様相が見られました。

 

炉から炉器台が出土しました。

住居が焼失した様子が分かります。


 

平成18年9月から10月までの調査状況

 
台地中央部に位置する調査区(4区)の調査を終了しました。遺構は,竪穴住居跡16軒,掘立柱建物跡4棟,溝9条,井戸跡16基,土坑271基等が確認されました。注目されるのは南部で確認された井戸跡で,大形で周堤(しゅうてい:土手)と付属施設の跡と見られる平場を有しています。時期や使用形態等については今後の検討課題です。また,北部で確認された複数の井戸跡は,調査区を東西に横断するように一列に並んでいます。
現在は,4区のさらに南に位置する5・6区の調査を開始したところです。

 
4区南部で確認された大形の井戸跡です。
4区北部で確認された井戸群です。
 

平成18年7月から8月までの調査状況

 
下土師東遺跡は台地の縁辺部に古墳時代前期の集落,中央部に奈良・平安時代の集落が広がっており,調査する場所によってその時代や性格が全く異なっています。現在は,台地中央部の奈良・平安時代の集落跡を中心に,調査を進めています。今回の調査区から確認された住居跡は17軒で,いずれも北部の壁際に竃(かまど)が設けられていました。また,この集落の東側にはほぼ南北に延びた溝が確認されており,集落はこの溝によって区画されていたものと思われます。今後は,この集落の倉庫と見られる掘立柱建物跡を調査する予定です。

 
集落を区画する第1号溝跡からは,
須恵器の甕や長頸瓶が出土しています。
平安時代の初め頃の住居跡です。
北部の壁際に竃が設けられています。
柱穴は確認されませんでした。
 

平成18年5月から6月までの調査状況

 
古墳時代(前期)や奈良・平安時代の住居跡,溝跡などの調査が始まりました。台地の端には古墳時代の集落,台地の中央部には奈良・平安時代の集落が広がり,時代によって住む場所が異なっていたことが分かりました。平安時代の住居跡の近くからは,「土師楓家」と墨(すみ)で書かれた土器の破片が確認されました。遺跡のある地区は「下土師」と呼ばれています。今後,土器に書かれた文字と集落との関わりを考えながら,調査を進めていきたいと思います。

 
住居跡のコーナーから土師器の坩(かん)や
高坏(たかつき)が出土しています。
土器の外側に「土師楓家」と書かれています。
筆跡(ひっせき)から,かなり書き慣れた人に
よるものと考えられます。
 

平成18年4月から5月までの調査状況

 
下土師東遺跡は,涸沼川を望む台地上にあります。現在は北半分の表土除去が終了し,古墳時代(今から1700年前)の竪穴住居跡のほか,溝跡なども確認されています。
溝跡からは埴輪(はのわ)片なども出土しており,北へ約50mのところに位置する東山稲荷(ひがしやまいなり)古墳との関連も考えながら調査を進めていきます。
 
遺構確認作業の様子です。ジョレンを
使ってていねいに掘り下げます。
黒く見える部分が遺構(住居跡)です。
これからどんな遺物が出てくるか楽しみです。
 

中畑遺跡(なかばたけいせき)


平成18年9月までの調査状況

 
9月末をもって調査を終了しました。今年度の確認された遺構は,古墳時代と中世が中心です。古墳時代については,標高10〜12m付近に集落が立地し,それよりも高い標高16m付近に前期の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が立地していることがわかりました。遺物では,後期の住居跡から出土した須恵器の大甕(おおがめ)が注目されます。中世については,掘立柱建物跡や方形竪穴遺構が数多く確認され,東海地方産の陶器(とうき)や中国からの渡来銭(とらいせん)などが出土しています。
 
中世の掘立柱建物跡・方形竪穴遺構群です。
古墳時代の集落跡と平安時代の住居跡です。

平成18年7月から8月までの調査状況

 
中畑遺跡は,涸沼川を南に望む緩やかな河岸段丘上に位置しています。遺跡の中で最も標高の高い場所からは,当地の有力者が埋葬(まいそう)されていたと見られる方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が確認されました。残念ながら,埋葬施設は確認できませんでしたが,方形に巡る溝から土師器(はじき)が出土したことによって,古墳時代前期(4世紀頃)に造られたものと分かりました。
 
方形周溝墓の溝から,土師器が
出土している様子です。
住まいとしての役割を終えた
古墳時代前期の住居跡に,たくさんの
土器が投げ捨てられていました。

平成18年5月から6月までの調査状況

 
南半分の調査を終了しました。古墳時代の住居では,建て替えが行われた家や火事にあ
った家,土器が大量に捨てられていた家など,家ごとに違った様子を確認することができました。涸沼川を南に望む緩やかな河岸段丘は生活に適していたとみえ,古墳時代から平安時代にかけての様々な時代の生活の跡が見られます。今後は,北半分の調査を進めていく予定です。また,新たな発見が期待されます。
 
調査の終了した中畑遺跡の南半分を,
空から撮影した様子です。
建て替えが行われた住居跡です。
規模も大きくなっています。
かまどの近くに大量の土器が
捨てられていました。
火事にあった住居跡です。焼けた柱材とほぼ
完全な状態の土器が確認されました。
   

平成18年4月から5月までの調査状況

 
中畑遺跡は,涸沼川を南に望む河岸段丘(かがんだんきゅう)上にあります。古墳時代(今から1700〜1400年前)や平安時代(今から1100年前)の竪穴住居跡のほか,中世(今から700〜500年前)の掘立柱建物跡や堀跡,井戸跡などが見つかっています。これまでにも,涸沼川沿いからはたくさんの遺跡が確認されており,当時の人々の生活に涸沼川が大きな役割を果たしていたことが分かります。
 
古墳時代の家の跡です。床の様子を
ていねいに調べているところです。
家の跡から須恵器の甕(かめ)がでた
様子を図面に記録しているところです。
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