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今月の逸品:宮原前遺跡出土の墨書土器


 宮原前遺跡は,常総市の東部に位置し,鬼怒川と飯沼川に挟まれた標高16〜20mの台地上に立地しています。縄文時代から江戸時代にかけての複合遺跡です。調査区は道路幅の調査でした。調査の結果,縄文時代から平安時代にかけての竪穴建物跡17棟,奈良時代から江戸時代にかけての井戸跡6基,陥し穴2基(縄文時代),土坑120基などを確認しました。
 平安時代の井戸跡のひとつは,上面が径約6.4mの円形で,深さ1mほどまでロート状を呈し,それより下部は径1.35mの円筒形に掘り下げられています。この井戸は,ロート状の緩斜部に多くのピットをもち,覆土の中から「ネ」「戌カ」と書かれた墨書土器を含む坏や甕が多く出土しています。現在においても井戸を埋める際にはお祓いをすることがしばしば行われますが,この時代にも,同じようなお祭りが行われたことが想像されます。井戸上端で確認されたピットにはこの井戸を埋める際に行われたお祭りに伴う施設を設置するためのピットが含まれているのではと考えられます。墨書土器はこの祭事に伴う行事として投げ込まれたものと考えられます。
 
墨書土器が出土した第10号井戸 第10号井戸出土墨書土器
 

今月の逸品:山王中坪(さんのうなかつぼ)遺跡出土の銭貨


山王中坪遺跡は,五霞町の北部に位置し,利根川右岸の標高12mの低台地上に立地しています。五霞の町は,江戸時代に行われた利根川の東遷事業により,水害の危険性が高まりました。本遺跡は,五霞町を輪中状に囲む堤防の一部です。
今回紹介する遺物は,寳永通寳と寛永通寳です。江戸時代の銭貨といえば寛永通寳が有名ですが,そのほかにも数種類の銭貨が鋳造されています。寳永通寳もその一つで,寛永通寳より一回り大きく,当時は「大銭(おおぜに)」とも呼ばれていました。この寳永通寳は,京都七条銭座で1708年4月から1709年2月までの1年余りしか鋳造されませんでした。裏面に「永久世用」の文字があるかも知れませんが痛みが激しく,確認できませんでした。表面にわずかに「寳」と「通」の字が判別できること,銭貨の大きさが寳永通寳と一致することから,この銭貨が寳永通寳であると判断できます。堤防跡の,水害により堆積したと考えられる層から出土しました。右側は,寛永通寳です。こちらも当遺跡から出土したものです。寛永通宝は,江戸時代を通じて長く鋳造されてきましたが,寳永通寳は鋳造期間が限られていることから,築堤時期の上限を判断する大きな手がかりとなりました。
 
第1号堤防跡から出土した寳永通寳 当遺跡より出土した寛永通寳
 

今月の逸品:吉原向(よしわらむかい)遺跡出土の鉄斧形土製品


吉原向遺跡は,阿見町の南部に位置しています。調査の結果,縄文時代から江戸時代までの遺構が確認でき,なかでも中心となるのは古墳時代中期の集落跡で,竪穴建物跡16棟をはじめとした遺構から多量の土器や土製品,石製品などの遺物が出土しています。
紹介する資料は,中期前半(5世紀前葉)の第10号竪穴建物跡から出土した「鉄斧形土製品」です。古墳時代の遺跡は,剣や玉,鏡,刀子など様々なものを石や土で模倣した「模造品」が出土することが特徴の一つです。当遺跡から出土した「鉄斧形土製品」は,鉄製の斧を粘土によって忠実に模倣して作ったもので,茨城県では初めて出土した貴重な遺物です。長さ7.6?,幅3.7?とやや小ぶりで,表面は,工具による刺突によって鉄表面の質感を表現し,裏面には鍛造の鉄斧にみられる鉄の合わせ目を表現したY字状の刻みがみられ,基部には柄を差し込むための袋部が丁寧に作られています。このように,鉄斧を表現するための工夫が各所にみられることから,鉄斧と見比べながら作られたものと考えられます。茨城県周辺では千葉県や福島県,遠方では宮城県や大阪府で出土例があるのみで,全国的にも希少な遺物です。土製であることから,何らかの祭祀的に用いられたものとみられ,集落内での役割について注目されます。
 
出土した鉄斧形土製品 鉄斧形土製品(展開)
 

今月の逸品:瑞龍(ずいりゅう)遺跡出土の文字資料


瑞龍遺跡は,常陸太田市の南部,里川右岸の標高42mの台地上に立地する縄文時代から江戸時代にかけての複合遺跡です。主体は古墳時代から平安時代にかけての集落跡であることが分かりました。
今回紹介するのは,平安時代の建物跡などから出土した文字資料です。文字資料は,坏や高台付坏,盤などの供膳具の底部や体部に,墨やヘラなどで人名や地名,吉祥文字が記されたものです。当遺跡から出土した墨書文字には,「望万呂」や「牟都刀自」の男女の人名,周辺に所在する長幡部神社や幡山の地名から,地名に由来すると推定できる「中都幡」などがみられます。こうした文字資料の出土から,官人や僧侶,有識者などの当時限られた識字者の存在が浮かび上がり,当地域では中心的な集落であったと考えられます。また,ヘラで書かれた一風変わった文字「女□(乙ヵ)」をみることができます。「」は「峠」,「榊」,「辻」などと同様に,奈良時代以降に日本で作られた文字(国字)であり,国字が出土した例は全国的にも稀有です。都から離れた当地域からこのような文字が刻まれた土器が出土したことは何を物語るのでしょうか。国字が地方にも伝えられていたことを示す貴重な資料といえます。
 
出土した墨書土器
(上:望万呂 左下:牟都刀自 右下:中都幡)
ヘラで国字が書かれた土器
 

今月の逸品:柴崎大日(しばさきだいにち)塚出土の「寛永の大日様」


柴崎大日塚は,つくば市の東部に位置しており,古い地図で確認すると,当遺跡は江戸時代には柴崎村の外れにあたります。古墳として調査を開始しましたが,埋葬施設や周溝が確認できず,後述する石仏などが出土したことから江戸時代の塚であることがわかりました。 今回紹介するのは,塚に祀(まつ)られていたと考えられる石仏です。大きな鼻で角ばった肩などの特徴的な顔立ちをしており,その手で印を結ぶ姿から,胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)であると分かります。この大日如来像は,茨城県の南部及び西部で50体ほど確認されており,寛永3(1926)年から寛永8(1631)年の6年間に,集中的に作られた「寛永の大日様」と呼ばれる石仏です。今回出土した石仏に彫られている年号は「寛永六年己巳(つちのとみ)八月十八日」と読むことができます。発掘調査によって地元でも忘れられてしまった信仰の姿が確認できた良い例だと言えるでしょう。
 
寛永の大日様(左は拓本) 大日様のアップと彫られた年号
 

今月の逸品:清水原山(きよみずはらやま)遺跡出土の動物意匠把手


清水原山遺跡は潮来市の北端部に所在し,夜越川の支谷に囲まれた標高約39mの台地上に位置しています。当遺跡は縄文時代中期後葉から後期前葉にかけての集落跡で,確認された遺構は竪穴建物跡11棟,炉跡2か所,地点貝塚4か所,土坑158基などです。
出土した遺物はコンテナ140箱で,大型土器を含む縄文土器をはじめ,耳飾りや土器片錘などの土製品,磨製石斧や打製石斧,磨石などの石器,石棒などの石製品もあります。今回紹介する動物意匠把手は,中期末葉の加曽利E4式に比定されるもので,土坑に投棄された状態で,4点出土しています。これらの把手は,鳥を象(かたど)ったものが多く,蛇・蛙などに見えるものもあります。把手はいずれも顔が内側を向いており,出産や送葬に係わる土器とする考えもあります。この動物意匠把手は加曽利E4式土器の分布とほぼ一致した範囲で確認され,関東地方東部や東北地方南部に多く発見されています。
 
動物意匠把手(表面) 動物意匠把手(裏面)
 

今月の逸品:柴崎大堀(しばさきおおほり)遺跡出土の旧石器時代遺物


 柴崎大堀遺跡は,つくば市の東部に位置しています。花室川と桜川に挟まれた舌状台地を横切るように掘られた中世の堀と土塁の調査を行いました。それ以前の人々の痕跡として,旧石器時代の石器集中地点や縄文時代の陥し穴も確認できました。
 今回紹介するのは,旧石器時代の石器集中地点から出土した遺物です。16点の破片が接合し,一つの固まりとなりました。接合した固まりは半分に割られた状態で,もとの石は拳大程度のものだったと思われます。接合の状況から,石を割っていく過程が読み取れます。また,接合した破片の間に大きな隙間が出来ています。この隙間に当てはまる破片は現場から出土していません。おそらく道具として利用するために,もとの石の残り半分と一緒に持ち去られたものと考えられます。遺物の出土状況から,旧石器時代の人はそれほど長い時間この場所にいたようには見えませんが,石器を作っている様子がいろいろと想像できる面白い資料です。
 
接合した破片資料 該当する破片が見つからなかった隙間
 

今月の逸品:築地(ついじ)遺跡出土の骨角器


築地遺跡は,常総市の北部に位置する縄文時代後期後葉から晩期中葉を中心とする集落跡です。調査の結果,竪穴建物跡51棟,土坑196基のほか,多量の遺物が出土する遺物包含層が確認され,当期の関東地方でみられる「環状盛土遺構」に類似する集落であることがわかりました。
出土した遺物はコンテナ約700箱で,優美な縄文土器をはじめ,土偶や耳飾りなどの土製品,石鏃や石皿・磨石などの石器,石剣・石棒や翡翠製の勾玉などの石製品もあります。今回紹介する骨角器は,後期後半の第8号建物跡と晩期前半の第143号土坑から出土した物を水洗いして確認しました。日本の酸性土壌では有機質の遺物は非常に残りにくいのですが,この2つの遺構は使われなくなったあとごみ穴として利用され,オオタニシなどの貝類とともに捨てられていたため,良好な状態で確認できました。左は鹿角製の栓状製品で,弓矢の弦の輪をかける部分であるゆはずと考えられています。中央は鹿角製のかんざしで,赤彩されたあとがあります。右はシカの中手骨製の骨鏃です。このほか,ごみ穴からはシカやイノシシ,コイやウナギの骨なども出土しており,当時の環境や生活の様子が復元できる良好な資料を得ることができました。
 
出土した骨角器 遺構内サンプル土壌の水洗選別作業
 

 
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