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●石岡事務所 [ご案内マップ] |
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〒315-0043 茨城県石岡市中津川123-1 |
112 320 158*23
「マップコード」および「MAPCODE」は(株)デンソーの登録商標です。 |
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●中津川遺跡(なかつがわいせき 08-205-151) [ご案内マップ] |
112 320 154*01 |
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所在地 |
茨城県石岡市中津川字下富田前241番地ほか |
立地 |
石岡市の南東部,恋瀬川左岸の標高約24mの台地上 |
調査原因 |
国道6号千代田石岡バイパス建設事業 |
委託者 |
国土交通省関東地方整備局常陸河川国道事務所 |
調査期間 |
2018年4月1日〜12月31日 |
調査面積 |
4,524㎡ |
種類 |
集落跡 |
主な時代 |
縄文時代, 平安時代,室町時代 |
主な遺構 |
竪穴建物跡17棟,掘立柱建物跡10棟,井戸跡1基,土坑413基,溝跡8条,柵列跡8条,ピット群5か所,包含層1か所 |
主な遺物 |
縄文土器(深鉢・浅鉢・有孔鍔付土器),石器(ナイフ形石器・打製石斧・磨製石斧・磨石・凹石,石皿・敲石・石鏃),土師器(甕・坏・高台付坏),須恵器(坏・甕・高盤),土師質土器(小皿・坏),陶器(甕),土製品(管状土錘・有孔円盤・土器片円盤・土器片錘・ミニチュア土器),石製品(玦状耳飾),金属製品(刀子・釘・銭貨) |
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*主な時代をクリックすると年表が出ます。 |
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東から西へ向かって伸びた浅い谷を挟む台地縁辺部から平坦部にかけて,縄文時代中期後葉の集落が形成されていました。特に,谷の南向き緩斜面から平坦部で,数多くの遺構を確認しました。竪穴建物跡は,加曽利EU〜EW式期にかけてのもので,その周辺には,貯蔵穴と考えられる円筒状の土坑が数多く構築されていました。また,谷の南向き緩斜面には,多くの土器や石器などを含んだ包含層が形成されており,魚などを捕る網の錘と考えられる大小さまざまな土器片錘が数多く出土しました。このことから,この集落で暮らした縄文人は,集落の周辺で採れるドングリをはじめとする植物資源をはじめ,内海であった霞ケ浦の水産資源を利用しながら生活していたことが想像できます。 |
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遺跡周辺の状況 |
群在する縄文時代の竪穴建物跡と土坑 |
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室町時代の掘立柱建物跡4棟を確認しました。第9号掘立柱建物跡は南北2間,東西3間の東西棟で,規模は南北4m,東西5.2mです。建物の範囲内からは,かわらけや渡来銭(宋銭)の皇宗通宝(こうそうつうほう,初鋳1039年)が出土しています。皇宗通宝は出土数が最も多い渡来銭で,真書体と篆書体の2種類が知られており,本例は篆書体です。日本では江戸時代の寛永通宝が誕生するまでの長い間に流通していたと考えられています。周辺では井戸跡なども確認しているため,縄文時代の遺構ばかりでなく,室町時代以降の土地利用の一端もうかがえます。 |
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小さな柱穴が並ぶ第9号掘立柱建物跡 |
第9号掘立柱建物跡付近から出土した皇宋通宝 |
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調査区内を東西に延びる浅い谷に形成された遺物包含層から,半分を欠いた玦状耳飾が出土しました。粘板岩製で,現存値は長さ5.5㎝,幅2.2㎝,厚さ0.5㎝です。本来の姿を復元すると長さ5.5㎝,幅約4.5㎝の長方形であったと考えられます。製作時期は,類例などから縄文時代前期末葉から中期初頭と考えられます。この半分を欠いた玦状耳飾には,破損後に径0.5㎝の孔が穿たれており,垂飾に作り替えられたと考えられます。また,破断面も研磨し,滑らかに再加工しています。これらのことから玦状耳飾から箆状垂飾への再加工品と推測でき,当時の人々の身体装飾に対する関心の高さをうかがえます。 |
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玦状耳飾を再加工した垂飾 |
研磨された破断面 |
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調査区北東部の台地上で縄文時代の竪穴建物跡や土坑を調査しています。今回紹介する第791号土坑は,径約2.3m,深さ約60cmの円筒状で,底面から倒れた縄文土器がこわれた状態で出土しました。この縄文土器は,縄文時代中期の加曽利EⅡ〜Ⅲ式土器と考えられ,口縁部に交互刺突文がめぐり,胴部に沈線区画の無文帯が縦横に施されています。これまでに調査した円筒状の土坑では,覆土の上層や中層から,縄文土器の破片や石器が廃棄された状況で出土していますが,第791号土坑から出土した縄文土器は,その場で使用されていたものがこわされた可能性があります。この土器の中は,土が入っていただけで内容物はわかりませんでしたが,円筒状の土坑は一般的に貯蔵穴と考えられていることから,この縄文土器は,堅果類などの出し入れや保管に使われていたものと推測されます。 |
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第791号土坑とその底面に横たわる縄文土器 |
第791号土坑の縄文土器 |
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台地の谷に面した緩やかな斜面部で,縄文時代中期(約4,500年前)の土坑などを確認しました。その中には,径約2.3m,深さ約1.5mといった大型で円筒状の土坑も含まれています。こうした大型の土坑は,木の実などの堅果類を貯蔵するための施設と考えられています。また,その覆土中から縄文土器片などがまとまって出土していることから,土坑が使われなくなると,不要となった縄文土器などの廃棄場としても利用されています。出土した縄文土器は加曽利EⅡ式土器と呼ばれるもので,付近に存在する竪穴建物跡とほぼ同時期であることから,両者は集落を構成する主要な施設であったと考えられます。こうした大型で円筒状の土坑は群在傾向にあり,当時は台地縁辺部を中心に貯蔵空間が広がっていたと推測されます。 |
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円筒状の土坑に廃棄された縄文土器片 |
底面に小穴を有する円筒状の土坑 |
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台地縁辺部から複数の竪穴建物跡を確認しました。第36号竪穴建物跡は,径約6mの円形で,床面までの深さは約30㎝,主柱穴は南北方向に長い六角形状に配置され,その中央部に炉が設けられています。炉は楕円形に地面を掘り窪めた地床炉で,長径約1.6m,短径約1mと大型です。建物跡から出土した遺物は,その大半が覆土中から出土しているため,建物の廃絶後に捨てられたものと考えられます。建物の廃絶時期は,今から約4,500年前の縄文時代中期中葉(加曽利EU式期)と考えられます。この建物跡の南側には,浅い谷(遺物包含層)が広がっており,当時の人々が壊れた土器や石器などの不要物を谷の窪地に廃棄していたことがうかがえます。 |
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大きな炉をもつ第36号竪穴建物跡 |
窪地となった建物跡に廃棄された縄文土器 |
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縄文時代の遺構の他に,平安時代の土坑を確認しました。土坑は長さ180cm,幅80cmの長方形で,掘り込みの深さは約30cmあり,長軸方向は南北を向いています。土坑の覆土中層から管状土錘と土師器坏が各1点,底面の東寄りから刀子1点が出土しています。土坑の規模や形状,遺物の出土状況から,この土坑は墓と考えられます。刀子は土坑の底面から出土していることから,被葬者の脇に置かれたもの,管状土錘と土師器坏は覆土中層から出土していることから,被葬者に供えられたものと考えられます。埋葬方法は,棺の痕跡がなく,釘なども出土していないことから,土葬と推測されます。時期は,土師器坏から平安時代の9世紀中頃と考えられます。管状土錘が供えられていることから,眼下にひろがっていた霞ケ浦で漁労にかかわった人物かもしれません。 |
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平安時代の墓(南から撮影) |
被葬者に供えられた品々 |
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今年度は,谷部とそれをとり囲む台地縁辺部を調査します。表土除去を済ませた範囲からは,これまでに竪穴建物跡や土坑などを数多く確認しました。竪穴建物跡の時期は,いずれも縄文時代中期後半の加曾利E式期と考えられます。竪穴建物跡の炉の多くは,地面を掘り窪めて火を焚いた地床炉でしたが,中には胴下半部を欠いた深鉢を埋設した土器埋設炉も確認できました。第34号竪穴建物跡の土器埋設炉は,埋設する土器の形に合わせて,漏斗状に掘り込んでいました。その丁寧な構築方法から,単なる地床炉とは異なる縄文人の特別な意識がはたらいていると想像できます。 |
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第34号竪穴建物跡の土器埋設炉 |
丁寧に埋設された土器(断ち割り調査) |
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