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整理センター国田分館[ご案内マップ]

 

下遠田遺跡 (げどおだいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,水戸市の南西部を流れる涸沼前川右岸に位置し,涸沼前川右岸と支谷に挟まれた標高33mほどの舌状台地上に立地しています。調査によって古墳時代後期の集落跡と室町時代の館跡の一部分であることがわかっています。
整理の結果,古墳時代後期の集落は,幾つかの小集団で構成されていたことがわかりました。中には香取海付近(現在の千葉県北東部)の集落の影響を受けたと思われる小集団も確認でき,竈の導入は,こうした方面からの移住や技術の伝播によってもたらされた可能性があります。また,竪穴建物跡の貯蔵穴から出土した須恵器の広口壺と提瓶には,螺旋状の沈線や絞り込みによる閉塞技法が認められ,上毛野地方(現在の群馬県)の技法を用いた製品であることがわかりました。約1400年前の当集落には,広域間の交流によって,技術や製品がもたらされていたと考えられます。
室町時代(約700年前)の館に伴う堀跡は,14世紀前葉に廃絶されています。宍戸氏が当地を所領する頃の廃絶であることから,宍戸氏が入部する以前の村落拠点であった可能性があります。
 
竪穴建物跡から出土した主な土器類 実測した土器をトレースしています
 

新田遺跡 (しんでんいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,五霞町の東部に位置し,利根川右岸の標高11〜13mの台地上に立地しています。当遺跡の東部には,江戸時代の東遷事業により開析された利根川が流れているため,周辺一帯は堤防の決壊による水害が昔からよく知られています。
調査によって,江戸時代の水塚を伴う屋敷跡を確認することができました。水塚とは,土盛りをした上に上屋を建てた江戸時代から近代にかけての利根川流域における特徴的な構築物で,利根川の氾濫時の避難場所となります。確認した水塚は土盛り部分で,黒色土や黄色土を約2mの高さに積み上げている状況が分かりました。出土遺物から,江戸時代後半に築かれ,昭和時代に至るまで緊急避難場所として使用されていたようです。今回の調査によって,水害の多い地域での先人達の英知を学ぶことができました。
 
新田遺跡出土の土器・陶磁器 撮影した陶器のデータを編集中
 

上原遺跡 (かんばらいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,五霞町の北部に位置し,利根川右岸の標高11〜13mの台地上に立地しています。
調査によって,縄文時代中期の竪穴建物跡5棟,土坑13基,江戸時代の掘込地業遺構などが確認できました。縄文時代の竪穴建物跡の周辺には円筒状の土坑が数基配置されており,貯蔵穴として使用していたものと考えられます。また,竪穴建物跡や土坑からは,狩猟で使われた石鏃のほか,煮炊き用の深鉢が見つかっています。
江戸時代の掘込地業遺構からは,素焼きの小皿の内面に仏法の法具である輪宝が墨で描かれている,墨書土器が出土しました。これは地鎮具で埋納されたものと考えられます。これにより,江戸時代における地鎮祭(とこしずめのまつり)の方法の一端について,知ることができました。
 
出土した輪宝墨書土器 縄文時代の石鏃を撮影しています。
 

殿山塚 (とのやまづか)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,五霞町の北東部に位置し,利根川右岸の標高11〜13mの台地上に立地しています。
調査により,江戸時代の塚1基のほか,土坑9基や溝跡1条が確認できました。塚の下からは,緡銭が出土しました。整理の結果,寛永通寳で40枚ほどあることがわかりました。
塚は,昔の堤防の斜面地の上に築かれていることがわかりました。緡銭は,その出土状況から塚が築かれる前に置かれたものと考えられ,塚を築く際の儀式に使われた可能性があります。
 
塚から出土した緡銭 寛永通寳を採拓している様子
 

上境旭台貝塚 (かみざかいあさひだいかいづか)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,つくば市の東部に位置し,桜川右岸の標高21〜27mの台地縁辺部から斜面部にかけて立地する,縄文時代後期後葉から晩期前葉(約3,000年前)の貝塚を伴う集落跡です。当遺跡は,平成19〜23年度にかけて6回の調査を行ってきました。
今回は,平成22年度に行った5回目の調査時の整理で,台地縁辺部と南東斜面部からは竪穴建物跡をはじめとする集落跡が,斜面部では貝層3か所,地点貝塚4か所,遺物包含層2か所などが確認できました。斜面貝層及び地点貝塚の貝を分析した結果,ハマグリ・シオフキ・ヤマトシジミを主体とする貝殻やイノシシやシカなどの獣骨類が確認でき,台地上から台地縁辺部に展開する集落からの継続的な廃棄行為によって形成されたものと考えられます。また,最も低い地点の土坑からは,多量の木片とともに,トチの実やクルミなどの種実が出土し,水辺での生活の一端を示すものとして注目されます。
 
出土した遺物 土器を復元しています
 

下大賀遺跡 (しもおおがいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,那珂市の北部に位置し,玉川と久慈川が合流する地点から西へ約2kmのところに位置し,玉川右岸の標高43mの台地上に立地します。縄文時代の陥し穴や平安時代の竪穴建物跡,井戸跡などが見つかりました。
今回は,平成24年度と平成25年度に行った南北に細長い調査区域の整理で,調査区の北端から確認された竪穴建物跡5棟の南側には建物跡は確認できず,この5棟が集落の南端であることが分かりました。また,第5号竪穴建物跡から「馬/□長」「馬長」と書かれた墨書土器が出土し,周辺で馬の飼育を行っていた可能性が考えられます。その他に火葬施設や土坑,溝跡,道路跡が見つかっており,当地域における古代の様相の一部が明らかになりました。
 
出土した墨書土器(「馬」) 出土した土器を復元しています
 

中道南遺跡 (なかみちみなみいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,日立市の北部で,太平洋岸まで東へ約1.5mの地点に所在し,小石川右岸の標高25mほどの台地上に立地しています。奈良時代から平安時代にかけての集落跡です。今回の調査区域は,西から東にかけて緩やかに傾斜している台地の緩斜面上にあたります。
整理作業の結果,竪穴建物跡36棟,掘立柱建物跡5棟,溝跡2条,土坑1基が確認でき,8世紀中葉から9世紀中葉までの集落跡であることが分かりました。出土遺物では,「小里」「貞ヵ廣」「大□(□は判読不明)」「牧」「夲」などの墨書土器18点が確認できました。「小里」「貞ヵ廣」は地名や人名で,「牧」は当集落の周辺において馬を飼育していた可能性を示唆しています。また,焼成と調整に特徴的な土師器の甕が出土しており,須恵器工人が製作にかかわった可能性があります。このような土師器甕が出土する遺跡の近くには,須恵器窯跡が確認される事例があることから,当遺跡周辺にも未確認の須恵器窯跡が存在することが考えられます。
 
出土した墨書土器 出土した土師器の甕
 

上宿遺跡 (かみじゅくいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,筑西市の西部に位置し,小貝川の支流である大谷川右岸の標高30〜33mの低地及び低位段丘上に立地しています。
奈良・平安時代には,掘立柱建物が整然と配置されており,一般集落の様相とはかなり異なっていました。整理作業の結果,掘立柱建物の配置は,各建物の向きを揃えたり,建物間の距離を一定にしたり,極めて計画的であることがわかりました。また,出土した大半の墨書土器には,「来」や「来方」と書かれており,中には朱墨で「来方」と書かれているものも確認できました。周辺を旧河道や古代道が通っていたとみられ,水陸交通の要衝の地であったことが想像できます。これらのことから,当遺跡は新治郡衙など古代の役所と関係がある,物資の集積に関わる集落であったことが考えられます。
 
土器を実測しています 出土した墨書土器
 

水戸城跡 (みとじょうあと)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,水戸市の北部に位置し,那珂川と千波湖・桜川に挟まれた標高約29mの舌状台地上に立地しています。
調査によって確認した平安時代(約1,200年前)の集落跡は,整理の結果,土師器や須恵器のほか,金属製品や灰釉陶器を所有しており,那賀郡衙との関わりが伺えます。また,調査した場所は,江戸時代(約400〜250年前)には,水戸藩附家老の中山氏を筆頭とした武家屋敷が並んでおり,江戸時代を通じて複数の所有者がいたことが分かりました。調査によって確認した土坑からは,磁器の碗や焙烙,手焙りなどが出土しており,ごみ穴になっていたことが分かりました。
 
土師器の破片を接合しています 江戸時代のごみ穴から出土した土器
 

新溜上遺跡 (しんためうえいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,坂東市の中央部に位置し,市内を南北に流れる江川左岸の標高16mほどの台地縁辺部に立地しています。
調査によって確認した旧石器時代の石器や縄文時代の土坑,古墳時代の竪穴建物跡などのうち,5棟確認した竪穴建物跡は,整理の結果,古墳時代前期(約1,700年前)のもので,出土した土器から当時の生活の様子を知ることができました。建物の使用をやめる際に,小形の壺などを使って祭祀を行っていたことが考えられます。
 
出土した土器類 接合作業の様子
 

大日後遺跡 (だいにちうしろいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,坂東市の北西部に位置し,市内を南北に流れる江川右岸の標高17mほどの台地縁辺部に立地しています。
調査によって確認した縄文時代の遺物集中地点3か所は,整理の結果,早期後葉(約7,000年前頃)のもので,当時,遺跡の北側には浅い谷があり,人々がこの地を水飲み場などとして利用していた際の土器と考えられます。
 
出土した土器類 拓本を採る作業の様子
 

井草本田遺跡群 (いぐさほんでんいせきぐん)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,境町の東部に位置し,鵠戸川支流右岸の標高17mほどの台地上に立地しています。
調査によって,確認した江戸時代(約300年前)の墓坑2基は,整理の結果,江戸時代の墓としては非常に珍しいものであることがわかりました。江戸時代には,埋葬される人の身分によってそれぞれ違う形の墓が作られていましたが,その中でも特殊な身分の人物が埋葬されていたことが考えられます。また,1基からは,六道銭が出土しており,銭貨が鋳造された年代などの検討から,埋葬は17世紀末以降に行われた可能性が高いこともわかりました。
 
出土した六道銭 特徴的な形の墓坑
 

大谷貝塚 (おおやかいづか)[ご案内マップ]


整理の成果

当貝塚は,美浦村の中央部,高橋川左岸の標高20〜25mの台地上に立地しています。平成18〜20年度の第1〜3次調査に続いて,平成25年度に第4次調査を行いました。
整理作業の結果,弥生時代後期後半の竪穴建物跡4棟は,第1〜3次調査で確認された竪穴建物跡(弥生時代中期後葉〜後期前葉)とは時期が異なり,台地上に小規模の集落が断続的に営まれていたようです。古墳時代の竈が導入されたころの竪穴建物跡(写真)では,廃絶時に滑石片を蒔いていたことが分かりました。類似例が,当貝塚の周辺遺跡でも確認でき,関連性があると思われます。
 
第53号竪穴建物跡の出土遺物 第53号竪穴建物跡の様子
 

島名熊の山遺跡 (しまなくまのやまいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,つくば市の南西部,谷田川右岸の標高13〜24mの台地上から低地にかけて立地しています。
今回の調査によって,古墳時代後期の竪穴建物跡から,建物の廃絶時に捨てられた多量の土器が出土しました。整理の結果,器種は坏や高坏,甕,甑など様々で,当時の人々の暮らしぶりを垣間見ることができます。
また,遺跡の中央部にあたる8区では,古墳時代後期における桁行5間,梁行2間の掘立柱建物跡が見つかり,当時としては稀な大型の建物跡であることがわかりました。建物は総柱で,倉庫としての機能を考えることができます。本跡から100mほど離れたところでは,過去の調査で古墳時代後期における桁行が5間以上の掘立柱建物跡2棟が見つかっており,今回と合わせた3棟の建物の関連が注目されます。これにより,古墳時代から奈良時代にかけて,集落が断絶することなく続いていたことの確実性が高まるとともに,古代における歴史の一端をひもとくことができました。
 
古墳時代の竪穴建物跡から出土した土器 奈良時代の竈の掘り込み作業
 

元宮本前山遺跡 (もとみやもとまえやまいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,つくば市の南西部,西谷田川左岸の標高20〜24mの台地上に位置しています。
調査によって,旧石器時代から古墳時代にかけての複合遺跡であることがわかっています。古墳時代の竪穴建物跡は,いずれも古墳時代中期(1,600年前)のもので,2時期に分けることができました。集落は7mを超す大型の建物を中心として,5〜7棟で成り立っている3グループで構成されていました。また,焼失建物跡5棟の内2棟では,上屋などの焼却後,高坏(たかつき)や土器片の上に別の土器を供える祭祀(さいし)的行為がなされていたことが想定できます。
 
第24号竪穴建物跡出土土器 大型建物跡(第23B号竪穴建物跡)
 

西泉田伏木遺跡 (にしいずみだふせぎいせき)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,境町の中央部に位置しています。町域の東寄りを流れる鵠戸川右岸の標高16mほどの台地上に立地し,南北約5kmの土塁として認識されていました。
調査によって,旧石器時代の石器製作跡,縄文時代の竪穴建物跡,室町時代の溝跡などを確認しました。 整理の結果,旧石器時代の黒曜石は,長野産のものであることが明らかになり,当該期の石材の流通を知る上で大変貴重な資料となりました。また,土塁とされてきたものは,江戸時代の盛土遺構であることがわかりました。
これらの盛土遺構は,当時のあざ境界的な役割を果たしていたと捉えることができました。
 
出土した石器類 字境の目印として機能した盛土遺構
 

山崎遺跡群 (やまさきいせきぐん)[ご案内マップ]


整理の成果

当遺跡は,境町の東部に位置し,町域の東寄りを流れる鵠戸川左岸の標高16mの舌状台地上に立地しています。
整理作業の結果,縄文時代から江戸時代までの断続的な人々の生活の営みが確認できました。江戸時代の遺構では,掘立柱建物跡と共に井戸跡や区画溝跡の配置から,当時の屋敷跡の遺造がわかりました。また,出土した陶磁器類は,瀬戸焼や伊万里焼など全国各地の焼き物が見られ,それらの陶磁器類が広く流通していたことがわかりました。
 
江戸時代の掘立柱建物跡 出土した陶磁器
 

整理センター開館のお知らせ

整理センターでは,茨城県内の発掘調査で記録した図面の整理や出土した土器の接合・復元・実測などの作業を行い,報告書を作成しています。
本年度は,水戸市水戸城跡・下遠田遺跡,那珂市下大賀遺跡,石岡市東田中遺跡,稲敷市清水古墳群・神屋遺跡・神屋南遺跡,つくば市上境旭台貝塚・島名熊の山遺跡・元宮本前山遺跡,日立市中道南遺跡,筑西市上宿遺跡,坂東市新溜上遺跡・大日後遺跡・馬立原遺跡・馬立原西遺跡,境町西泉田伏木遺跡・山崎遺跡群・井草本田遺跡群,五霞町新田遺跡・上原遺跡・殿山塚,美浦村大谷貝塚の11市町村の23遺跡を整理する予定です。 現在,発掘調査で記録した図面を点検・修正,出土した土器を復元する作業などを行っています。今年度は,整理センター国田分館ですべての作業を行っており,事前に申し込んでいただければ,整理作業の見学,図書の閲覧などが可能です。
昨年度は,地域の方々の見学や県内の小学生の体験活動等が行われ,喜びの声を頂きました。本年度も,たくさんの方々のご来館をお待ちしております。

開館日:毎週月曜日〜金曜日(土・日曜日・祝祭日は閉館)
開館時間:午前9:00から午後4:30まで

連絡先:整理センター国田分館 水戸市下国井町1661-2 TEL.029-239-6000
[ご案内マップ]
 
報告書の閲覧もできます。 土器の復元をします。
遺物の拓本を取ります。 コンピュータでも作業します。
 

 
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